高橋美佐さんのキャリアは、現代の働き方やキャリアチェンジに対する挑戦と成長を象徴する物語です。
AIエンジニアとしてキャリアをスタートさせた彼女は、専業主婦から再び新しいフィールドに進出し、多文化や新しい学びを積極的に取り入れ、自己成長を遂げてきました。
彼女の経験からは、現代のキャリア構築において、変化に柔軟に対応し、自分を再定義し続けることの重要性が感じられます。
このブログでは、そんな彼女の経験をもとに、キャリアにおけるターニングポイントや異文化での挑戦について掘り下げていきます。
どのようにして自己の限界を超え、新たなステージに進んでいくのか、その秘訣を探ります。
今回のインタビュー動画は、高橋美佐コーチの考え方・あり方に強く影響を与えたアメリカでのびっくり体験がふんだんに盛り込まれているので、かなり長くなりました。(#1-3まであります)その分、とても面白いです。
その土地に子連れで住んだことがある人にしか体験できない興味深い内容になっています。長いですが、聞く価値・読む価値大いにありです!
高橋美佐さんのキャリアは、まさに時代の変遷を象徴するものでした。
大学院修了後、彼女はAIエンジニアとして働き始めましたが、当時は「AI」という言葉すら一般的ではなく、彼女が取り組んでいた自然言語処理や機械翻訳の研究は、まさに未来を切り開くものでした。
「ディープラーニングの原型を作っていたようなものですよ」と高橋さんは振り返ります。
現在、私たちが日常的に利用する翻訳技術の背後には、彼女のような先駆者たちの努力がありました。
結婚後もエンジニアとして働いていた美佐さんでしたが、出産を機にキャリアに一旦区切りをつけました。
しかし、それでも彼女は完全に仕事を諦めたわけではありません。
当時、テレワークがまだ普及していなかった時代に「SOHO(Small Office/Home Office)」という在宅勤務の形で、ソフトウェア開発の仕事を続けていたのです。
「畳の部屋にパソコンを広げて、ソフトウェアを書いてました」と高橋さんは笑いながら振り返ります。
当時、インターネットがまだ使えない中、できあがったプログラムを手持ちで研究所まで持って行くという方法で仕事を進めていた彼女は、まさに新しい働き方を切り開いた先駆者でした。
その後、夫の転勤でアメリカに移住した美佐さんは、ここで新たな壁に直面します。
アメリカでもSOHOを続けようと試みましたが、契約の関係で仕事を続けることができなくなり、完全に専業主婦となってしまったのです。
しかし、彼女は諦めずに「アメリカでしかできないことをやろう」と決意し、行動に移しました。
それは現地の幼稚園で知り合ったママ友の勧めで、社会人向けの授業を提供する大学のクラスに参加することにしたのです。
「英語も十分話せない中で、興味のあることを学びながら実践的に英語を身につけました」と振り返ります。
言葉の壁を乗り越えながらも、学びを通して自分を成長させていく強さを、美佐コーチは持っていました。
アメリカでの生活を始めて間もなく、美佐さんは思いがけない形で異文化との出会いを体験しました。
ある日、彼女の息子がベトナム出身の家族の家に遊びに行った時のことです。いつものように息子を送り出し、安心していた美佐さん。しかし、しばらくして日本では考えられないびっくりな出来事が起こります。
なんと、その家族のおばあちゃんが美佐さんの息子を連れて突然親戚の家へ出かけてしまったのです。
日本だったら、事前に親御さんに許可を取りますよね。ところがその家族は、そんなことをいっさいせずに、どこに行くかも告げずに美佐さんの息子を連れ出してしまったのです。
美佐さんは「まさか息子がどこに行ったかわからないなんて」とびっくりし、すぐに親戚の家を探して追いかけました。
ようやく辿り着くと、彼女の息子はその家の子供たちとすっかり打ち解けており、親戚の人々に囲まれて楽しそうに食事をしたというのです。
「いきなり知らない家で、しかも初対面の人たちと一緒に食事をするなんて、日本じゃ考えられない!」と高橋さんは驚きを隠せませんでしたが、それはベトナムでは日常的なことだったのです。
この経験を通して、彼女は異文化との価値観の違いを強烈に体感することになりました。
「本当にいろんな文化があるんだなって、その時改めて実感しました」と彼女は語ります。
アメリカでの生活を通して、17カ国以上もの国籍を持つ人々と交流する機会があり、彼女の視野はさらに広がっていきました。
アメリカでの生活には、多くの「ハッピーな驚き」がありましたが、時には厳しい現実にも直面することがありました。
ある日、高橋さんは交通事故に巻き込まれました。幸いにも大きな怪我はなく、最悪の事態は免れたものの、その後の対応で困惑することが起きます。
「大きなトラックに巻き込まれて、警察が来たんですけど、運転手が警察にあれこれ説明していて、何か違うなって感じたんですよ」と高橋さんは振り返ります。
明らかに違和感を覚えた彼女でしたが、その場で自分の意見をすぐに伝えることができませんでした。
「確認してから言おうと思っていたんです。でも、その場で言わないと、それは主張していないのと同じなんだと後で気づきました。」
運よく、現場には目撃者がいて「私が見ていました」と証言してくれたため、その時は事なきを得ました。
この経験を通して高橋さんは「アメリカでは、発言しない人は本当に存在しない人なんだ」と痛感。それ以来、彼女はその場で自分の意見を発信することの大切さを学び、積極的に自己表現を心がけるようになりました。
最上と美佐さんのつきあいは長く、一緒に海外のカンファレンスに行った経験もあります。
あるとき、最上ひとりで、海外でのコミュニケーション系の研修に出席することになりました。英語が全くしゃべれない最上にとって、無謀としかいえない行動だったのですが、出発前に美佐さんからキツくいわれたことがあります。
いいですか最上さん。アメリカでは、何も言わない=存在しない、なんですよ。だから、下手でも単語だけでもいいから、とにかくしゃべること!
そうなんだぁ・・・とその時は思ったのですが、海外のカンファレンスでその理由を体感したのです。
メインプレゼンターの講演が終わったあと質問タイムになりました。
日本だったら、誰も手をあげない、もしくは、いかにもな人が長々質問する、といった光景が普通ですが、それとは全く違う光景が繰り広げられたのです。
まず、左右の通路に2本のスタンドマイクが立てられました。
と同時に、大勢の人がそこに列を作ったのです。初めての光景でした。
さぞかしみなさん、素晴らしい質問をするんだろうな、と思っていたら、英語がよくわからない最上にすら、その質問超くだらなくない?と思うような内容が続いたのです。
これにもびっくりでした。
このとき、美佐さんからきつく言われたことがよみがえり、完全に腹落ちしたのでした。
アメリカでの濃密な2年間を経て、高橋美佐さんは日本に帰国します。しかし、そこでも新たな課題が待ち構えていました。
アメリカでは「発言しない人は存在しない」という社会で自己表現の大切さを学びましたが、日本に戻ると、そのままでは通用しない場面が多いことに気づきます。
「アメリカでは何でもその場で言わなければ存在しない人と見なされます。でも日本では、場の空気を読んで言わない方がいい時もあるんですよ」と高橋さん語ります。
積極的であることが求められるアメリカ文化、それとは真反対の日本文化。異なる文化に戸惑いつつも、美佐さんの日本での新たな挑戦が始まりました。
日本に帰国してすぐ、美佐さんは、日本文化とアメリカ文化の違いを改めて感じる出来事に直面しました。
その日は、役所での手続きや引っ越しの片付けに追われており、美佐さんは息子くんの帰宅時間より遅れてしまいました。
遅れた時間はわずか10分。けれど、その10分が、彼女にとって思いもよらない展開を引き起こすこととなりました。
息子くんはまだ小学生でしたが、アメリカで育った彼は、両親や保護者が常に一緒にいるのが当然という教育を徹底的に叩き込まれていました。アメリカでは、子どもが一人で家にいて、保護者やベビーシッターなどの大人がいない状況は「育児放棄」と見なされます。
そのため、美佐さんの息子くんは、帰宅して母親が家にいないと分かった瞬間、まるでアメリカにいたときのように、すぐさま「お母さんがいない」と警察に駆け込んでしまったのです。
高橋さんが家に戻ると、警察から電話がかかってきました。
「お子さんが警察署に来ています」→「えっ、なんですって???」
彼女は一瞬状況が飲み込めず、頭が真っ白になりました。
急いで息子を迎えに警察署へ向かうと、息子くんは警察官にジュースをもらいおいしそうに飲んでいました。
「お母さん、ちゃんとしてくださいね。」と優しく諭す警察官。
日本では「かぎっこ」など、子どもが一人で留守番をすることは珍しいことではなく、高橋さん自身もそれを当然のこととして受け入れていました。
しかし、アメリカで厳しく教育された息子くんにとっては、それはあってはならないこととして幼い心に刻み込まれていたのです。
「たった10分の遅れがこんな大事になるなんて、思いもしませんでした。」と高橋さんは笑いながら振り返りますが、同時にこの出来事を通して、日米の文化の違いを痛感したとも語ります。
「アメリカでは子どもを一人にすることは危険とされていて、親や保護者が常に一緒にいることが義務となっています。でも日本では、子どもが一人で家にいることは普通のことなんです。この経験で、どちらの文化も理解し、バランスを取ることの大切さを改めて学びました。」
息子くんが無事で何事もなく終わったからこそ、今では笑い話として語れるこのエピソード。
この経験は、彼女が日本で再び生活を築き上げる中で、異なる文化の視点を持ちながらバランスよく適応するための大きな教訓となったのです。
アメリカでの生活から帰国したとき、高橋さんが最初に感じたのは「ホッとした」という強い安堵感でした。
彼女が住んでいたサンディエゴは、治安が良い場所として人気の高いエリアでしたが、それでも日本と比べると常に危険を意識せざるを得ない環境でした。
「アメリカでは、車に乗る前に周りを確認することが当たり前でした。まるでゴルゴ13のように、周囲に誰か怪しい人がいないかを気にしながら家に入ったり、車に乗ったりする毎日だったんです。」と高橋さんは当時を振り返ります。
そんな緊張感の中で過ごした2年間のアメリカ生活を終え、日本に帰国したとき、彼女はその違いに驚きました。
日本では、車に乗る際も、自宅に入る際も、周囲に気を張ることなく生活できるという安全性の高さが自然に感じられる環境だったのです。
「日本に帰ってきた時、本当にホッとしました。これでやっと安心して生活ができる、そう思いました。」と高橋さんは語ります。
しかし、ホッとしたのも束の間、彼女は次に日本の社会問題に目を向けるようになりました。
それは、地域で増えてきた軽犯罪や痴漢の問題でした。
特に女性や子どもが被害に遭うことが多く、当時の日本ではこうした問題がまだ小さなこととして扱われがちでした。痴漢の被害に遭っても、「自分が恥をかくから」と被害を公表しない人が多かったのです。
ここで高橋さんは、アメリカで学んだ「割れ窓理論」(注1参照)が頭をよぎりました。
小さな犯罪を見逃してしまうと、やがてそれが大きな問題に発展するという考え方です。
「日本がアメリカのような犯罪の多い社会になってほしくない。そのために自分にできることは何か?」と考えたとき、彼女は自ら地域社会のために動く決意をしました。
そのタイミングで、PTA会長選挙が行われることを知ります。
しかし、誰もがその責任の重さを嫌がり、会長を引き受けたがらない状況でした。
「これで地域の安全が守れるなら、私がやるしかない」と、高橋さんはPTA会長に立候補する決心をしたのです。
こうして彼女はPTA会長として活動を始めましたが、そこには予想以上の困難が待ち受けていました。
地域の意見をまとめ、問題を解決していく過程でぶつかったのは、人間関係の問題です。
しかし、この経験が後に彼女をコーチングの道へと導き、地域のリーダーとしてだけでなく、人生の新たなステージへと進むきっかけとなったのです。
「アメリカでの経験がなければ、私がPTA会長になろうとは思わなかったでしょう。危険な環境で学んだこと、そして日本に帰って感じた安心感と地域の問題意識が、私の行動を後押ししました。」と、高橋さんは振り返ります。
彼女の正義感と行動力は、地域社会の安全を守るための第一歩となり、その後のコーチングキャリアへとつながっていったのでした。
注1:割れ窓理論
割れ窓理論とは、小さな犯罪やルール違反を放置すると、それが大きな犯罪やモラルの低下につながるという理論です。アメリカの犯罪学者ジョージ・ケリング博士が1980年代に提唱しました。
割れ窓理論の主な内容としては、次のようなものがあります。
この理論は、ニューヨーク市で実践されました。当時のジュリアーニ市長が、割れ窓の修理や落書きなど軽微な犯罪の取締りを強化した結果、犯罪が大幅に減少したと言われています。
- 1枚の割れた窓ガラスを放置すると、さらに割られる窓ガラスが増え、街全体が荒廃してしまう
- 軽微な犯罪を逃さず取り締まることで、重大犯罪を予防できる
- 路上のゴミを放置しているまちは、さらにゴミが捨てられるようになり、犯罪が起こりやすくなる
- 遅刻やつまみ食い、ルール違反などを放置していると、どんどんモラルが低下していく
以前美佐さんが、このときのことを話してくれたことがあります。
当時の美佐さんってどんな人だったかというと・・・
幼稚園から帰る子どものお迎え場所で、NewsWeek拡げて読んでる人
だったというのです。
いやぁ・・・そりゃぁ周りは引きますよね。
このとき最上の頭の中には、帰国子女が日本に馴染めず不登校になる図式が目に浮かびました。( ・_・;)
高橋さんがPTA会長として活動していた時、その仕事は想像以上に複雑で、困難なものでした。
地域の意見を取りまとめ、さまざまな活動を進める中で、彼女は次第に人間関係の難しさに悩むようになっていきました。「みんなの意見を聞いていたら、何も進められない」と感じながら、会長として責任を果たすためにあれこれと奮闘していた高橋さんでしたが、次第に心身ともに負担がかかり、体調を崩してしまったのです。
そのとき、PTAの役員仲間が「コーチングっていうのがあるよ」と教えてくれました。
「コーチング」という言葉自体を初めて聞いた高橋さんは、最初はあまりピンときていませんでした。実際には、彼女が紹介されたのは「コミュニケーション講座」という形で、コーチングの本質がすぐに分かるものではありませんでした。しかし、PTAの役員仲間が強く勧めてくれたため、高橋さんはその講座に通い始めました。
講座の内容が進むにつれ、次第に「コーチング」という概念が見えてきました。
講座では、いかに自分自身を捉えるかが最も重要だと教えられました。
高橋さんは、「自分をどう捉えるかが鍵なんだ」ということに気付き、これが自分のコミュニケーション力やリーダーシップに大きな影響を与えるのだと実感します。特に、PTAのように多くの人々をまとめる場では、このスキルが不可欠でした。
「最初は、どうやってPTAをうまく運営するか、どうやってみんなをまとめるかっていうことを学びたかったんです。
でも、やっているうちに、結局自分自身をどう捉えるか、そして自分との向き合い方が一番大事だと気付きました」と、高橋さんはそのときの気持ちを振り返ります。
このコーチングの学びは、PTAでの活動を大きく改善しました。
自分との向き合い方を変え、他者とのコミュニケーションも改善され、PTAの運営は円滑に進み始めたのです。
そんな中、講座には日本で立ち上がったばかりのコーチングファームの社長が招かれ、高橋さんはさらに深くコーチングに興味を持ちました。
この社長は当初「PTAなんてお金にならない」と思いながらも参加してくれたのですが、彼の講座は非常に有意義で、参加者の中にはその後も著名なビジネスリーダーへと成長する人が続出しました。
「東京の郊外にあったそのPTAには、すごく熱心な人たちが集まっていて、本当に勉強熱心なPTAだったんです。となりの地域のPTAからも驚かれていました。」と高橋さんは語ります。このPTAでの経験は、彼女のコーチングへの関心をさらに深めるきっかけになりました。
PTA活動を通じてコーチングに出会い、その有効性を実感した高橋さんは、「もっと本格的に学びたい」と思うようになりました。
その後、夫の転勤で関西に移住することになり、東京で築いた人脈が途絶えてしまいますが、この新しい環境で、高橋さんはコーチングの学びをさらに深めていくことになります。
「東京でのつながりが切れてしまったけれど、だからこそコーチングをしっかり学びたいと思いました。」と彼女は語ります。こうして彼女は、PTAでの苦悩を乗り越え、コーチングという新しい道へと進み始めたのでした。
コーチングの学びが始まったのはPTA活動の中でしたが、それが彼女の人生に大きな転機をもたらし、後のプロコーチとしてのキャリアの基盤となったのです。
高橋さんが最上(このブログ筆者)と出会ったのは、コーチングを深く学び始めたころのことでした。
当時、コーチングの学びを実践する中で、「コーチングを学ぶ、コーチングをする、コーチをつける」という3つのステップが重要だと教わっていました。そして、彼女が次に必要だと感じたのが「コーチをつける」ことでした。
「自分自身をどう捉えるかという自己基盤が大事だなと思っていたんです」と、高橋さんは振り返ります。
当時の彼女は、自己基盤を扱えるコーチを探していましたが、そのためにどのようなキーワードで検索したかはすっかり忘れてしまったと語ります。
とにかく、インターネットで探していたところ、たまたま最上の名前がヒットしました。
当時最上は子育てコーチングを専門にしていたわけではなかったものの、プロフィールに「親とうまくいかなかった」という話を書いていて、それが高橋さんの目に留まったのです。
当時開いていた最上のホームページが印象に残り、高橋さんはコーチとしてわたくし最上を選んでくれました。
「最上さんのホームページは、当時コーチング業界で他に競合がいなかったので、すごく目立っていました。先駆者利益ってやつですね」と高橋さんは当時を思い出します。
最上談:今と違ってHPを作っているコーチがほとんどいなかったので、「ホームページビルダー」で作った手作り感満載のサイトが、なんとコーチング業界の大手を抜くことがあったのです。
高橋さんが最上をコーチとして雇ったことが御縁で、その後ヘルスコーチジャパンを立ち上げる際、声をかけました。設立メンバーとして関西から参加してもらうことになり、そこからわたしたち(美佐さんと最上)の長い関係が始まったのです。
「最上さんとの出会いが、私のコーチング人生において大きな転機になりました」と高橋さんは語ります。
こうして、美佐さんは、最上とともに、自己基盤を整え、コーチングのさらなる高みを目指す旅路に足を踏み出しました。
高橋美佐さんがプロコーチとして活動を始めた頃、多くのコーチたちがぶつかる「100時間の実績」という壁に、彼女もまた直面していました。
コーチングの国際資格を取得するためには、100時間のコーチング実績を積む必要があります。しかし、最初の一歩を踏み出したばかりのころは、クライアントをどのように見つけ、どのように実績を積むのかが大きな課題でした。
「専業主婦をしながら少しずつ仕事が増えていったんです」と高橋さんは語ります。
彼女はゼロからスタートしたため、独立に対する不安は少なかったものの、どのように100時間の実績を積むかについては手探りの状態でした。
最初にコーチングを学び始めた頃、友人やママ友に「コーチングというものがあるんだよ」と話していましたが、ある日、子どもの学校で事件が起きたことがきっかけで、その話が現実のものとなります。
事件により、多くの親たちが子どもたちの安全や将来に対して不安を抱きました。その時、ママ友の一人が「この不安をコーチングで解決できないか」と高橋さんに相談してきたのです。この出来事が、彼女のコーチングの実績を積むきっかけとなりました。
「それが最初でした。同じ不安を持っている親たちが集まって、グループコーチングを始めたんです」と高橋さんは振り返ります。
彼女は月に一度、数時間にわたってコーチングセッションを行い、その中から個別にコーチングを希望する人も現れました。
こうしたグループセッションや個人セッションの積み重ねが、少しずつ100時間の実績へとつながっていったのです。
「個人のクライアントが少ない時期もありましたが、グループコーチングが大きな助けになりました」と語る高橋さん。
彼女はこのグループコーチングを継続し、その成果を積み重ねながら、徐々に経験を蓄えていきました。
「今のコーチはすごくスピードが速くて、あっという間に100時間を達成してしまいます。でも、私の場合は本当に時間がかかりました」と彼女は笑いながら語ります。彼女が100時間を達成するまでには、何年もかかったのです。
さらに、高橋さんはコーチング業界における集客についても独自の工夫を凝らしていました。
元エンジニアだった知識を活用して、自らホームページを作成し、そこでコーチングの提供を広めていきました。
しかし、ホームページからの集客が本格化したのは、比較的最近のことだといいます。
「昔はホームページからの集客はそんなに多くなかったんです。でも、最近になってようやくお客様が来てくれるようになりました」と彼女は振り返ります。
当時、コーチングの情報は限られており、高橋さんは「自己基盤」を扱うコーチを求めていた時期に、ネット検索でたまたまヒットした「コーチングの薦め」のサイトから最上と出会いました。そしてその後、ヘルスコーチジャパンでの協働メンバーとしての活動につながりました。
彼女はコーチングの学びを続けながら、徐々に100時間→500時間の実績を積み、コーチとしてのキャリアを確立していったのです。
こうして高橋さんは、子どもたちの学校での出来事をきっかけに、コーチングを通じて多くの親や地域の人々と向き合いながら、コーチングの経験を重ねていきました。
彼女のストーリーは、一歩一歩着実に前進し、やがてコーチングの世界で確かな地位を築く過程そのものでした。
高橋さんがコーチングを学んで一番よかったことを聞かれたとき、彼女は少し考え込みました。
「一番って言われると困るんですよね」と答えた彼女ですが、実際にはコーチングを通して多くのことを学んできました。
と彼女は語ります。
コーチングを学ぶ前の彼女は、いわゆる「べき論」に縛られていました。「こうするべき、ああするべき」という考えにとらわれ、周囲の期待や社会的な常識に合わせて動くことが当たり前だったのです。
しかし、コーチングを学んだことで、自分自身の本当の気持ちや欲求に気づき、べき論に縛られた人生から少しずつ解放されていきました。
「べきに従うことで、体調を崩してしまうこともあったんです」と振り返る高橋さん。
特に子育てに関しては、無意識に「子どもを最優先にしなければならない」という強い「べき」が働いていたといいます。
彼女は、子どもが生まれたことで自分を犠牲にしなければならないと感じていたのです。
親からの影響や、社会的な期待が大きくのしかかり、彼女自身の時間や自由は奪われ、苦しさを抱えながらもその感情に気づけないまま日々を過ごしていました。
「でも、コーチングを学ぶことで、その苦しさを自覚できるようになり、自分の課題に向き合えるようになったんです」と高橋さんは言います。
コーチングが彼女に教えてくれたのは、他者に押し付けられた「べき」ではなく、自分自身の価値観や希望に基づいた行動の大切さでした。これにより、子育てや家事に対しても自覚的に取り組むことができるようになったのです。
「子どもに対して無理やり自分の課題を押し付けることはなくなりました。コーチングのおかげで、私は自分の人生と向き合い、子どもにも優しく接することができたんです」と語る彼女。
その結果、彼女は子どもの人生を支えながらも、親としての役割をしっかり果たすことができたのです。
「コーチングを学んで一番良かったことは?」という問いに、高橋さんは最後にこう結論づけました。
ただし、この言葉には彼女の深い経験と多くの苦悩が裏打ちされています。
表面的なスローガンのように聞こえるかもしれませんが、高橋さんの人生において、この言葉が持つ意味は非常に重く、彼女自身が試行錯誤を経てたどり着いた大切な答えだったのです。
と彼女は最後に言いきりました。
「こうするべき」「ああするべき」という周囲の期待や社会的な常識に従い、常に自分を抑えて生きていた。
自分が何を感じているのか、何を望んでいるのかを意識できず、無意識のうちに自分を犠牲にしていた。
特に子育てに関しては、子どもを最優先にするべきだというプレッシャーに押され、心身に負担を抱えていた。
自分の自由や時間を奪われ、子どもや周囲の期待に応えようとするあまり、苦しさに気づかないまま日々を過ごしていた。
コーチングを通じて、自分が何を考え、何を感じているのかが明確になり、他人に押し付けられた「べき論」から少しずつ解放された。
自分自身の価値観や希望を大切にし、それに基づいて行動することで、他者に無理に従う必要がなくなった。
子どもに対して無理に自分の課題を押し付けることがなくなり、穏やかに接することができるようになった。結果として、親としての役割もより充実したものとなった。
「誰かのべきに従うのではなく、自分の選択で未来を切り開いていく」という大きな学びを得て、今では自分の人生に対して責任を持って行動するようになった。
名前: 高橋美佐(たかはしみさ)
コーチングオフィス円 代表
職業: マインドフルネスに強いパーソナルコーチ、学びをサポートする学習ファシリテーター、研修講師
学歴および職歴:
資格:
国際コーチング連盟(ICF)認定プロフェッショナル・コーチ(PCC)
NPO法人ヘルスコーチ・ジャパン認定 メンタルコーチ/ヘルスコーチ
国際認定資格 6seconds認定 SEI EQ アセッサー
国際認定資格 6seconds認定ブレイン・プロファイラー
国際コーチング連盟日本支部(ICFJ)倫理規定&コアコンピテンシー・アンバサダー